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プロフィール

1949(昭和24)年11月19日、東京都江戸川区生まれ。 1970年に歌手デビュー、1977年「愛のメモリー」で日本レコード大賞歌唱賞受賞。

圧倒的な声量と表現力を誇る歌手としての実力のほか、主演を務めた「噂の刑事トミーとマツ」などドラマやCM、バラエティ、舞台と幅広く活躍。

2015年には日本記念日協会から9月6日(クロ)が松崎しげるの日として認定。自身が主催する音楽フェス「しげる祭り・黒フェス」も定期的に開催する。
松崎 しげる

第10回は、六本木にこの人あり。かつて「夜の帝王」とも呼ばれ、六本木の街に数多くの武勇伝を残す歌手の松崎しげるさんです。

熱血野球少年から高校で音楽の道へ。 シンガー“Shigeru Matsuzaki”は六本木で作られた。

僕は1949(昭和24)年、江戸川区の生まれ。戦後まもない頃の下町は鉄工所が多くてね。子供時代は鉄工所に置かれた飛行機の残骸や戦車の中で遊んでいました。1950年代の東京は、江戸川から東京タワーが出来上がっていく様子がありありと見えたんですよ。

両親の影響でナット・キング・コールを聴いていた洋楽好きな子供で、中学2年の時にビートルズと出会って夢中になりました。最初にラジオで耳にした「ASK ME WHY」には衝撃を受けましたね。

僕が初めて六本木に足を踏み入れたのは、高校3年の時。小学生からずっと野球一筋だった毎日が、高校2年で野球部を退部してからはギターが楽しくなって、音楽にのめり込んでいきました。その頃、六本木5丁目の『ハンバーガー・イン』(飯倉片町で1950年創業。正式店名は『ザ・ハンバーガー・イン』)が話題で、クラスの友達と食べに行ったのが六本木初体験。お客さんの半分がアメリカ人で、日本じゃないような雰囲気に感激してね。それまでは親父に連れていってもらった後楽園球場のホットドッグが人生最大のカルチャーショックだったけど(笑)、無けなしのお金を握りしめて『ハンバーガー・イン』に行って、夢のような時間を過ごしたのが17歳の最高の思い出でした。

18、19歳の頃は、『アマンド』の横にあった『さわ』というサパークラブで、1年半くらいバンドで出演していました。大学に進んだものの学園紛争真っただ中で、ほぼ休校状態だった時代です。

東京生まれ東京育ちの自分にとっても、六本木はとにかく憧れの場所で、まさかそこで仕事ができるなんて夢にも思ってなかった。今でも『アマンド』の横の坂道を歩くと、半世紀も前のことをありありと思い出しますよ。果たして自分の音楽で飯が食っていけるのか、本当にこれを天職にしていいのかと、思い悩みながら歩いてたなぁ。

飯倉片町のイタリアンレストラン『キャンティ』の1階にあった『ベビードール』は、ロカビリーのミュージシャンや芸能界の先輩たちが衣装を誂えるファッション・ステイタスの頂点のような店で、今まで見たこともないような『ピエール・カルダン』のタイトなスーツとかを置いていて、憧れの店でした。あまりに高くて手が出なかったけどね(笑)。やっとバンドで稼げるようになってから、メンバーと『ベビードール』で衣装を揃えて、意気揚々と六本木を闊歩した記憶があります。僕は一つの時代を作るには「食事と場所、ファッション」が必要だと思っていますが、当時の六本木はその全てがある街でした。

伝説の店で、かの名優と即興流しの日々。 大ブレイクのきっかけとなった1976年。

20歳の頃にソロ歌手になってからも、遊び場は六本木でした。当時『ユキ』というクラブがあって、モデルさんとか美男美女が集まるすごく華やかな場所でね。そこで弾き語りのバイトをしていたんです。そしたらまだ駆け出しだった西田敏行がお店に来て、プレスリーのモノマネしながらデタラメな英語で歌ってて。面白い男でね。そのうちに売れない役者と歌手の2人が(笑)お客さんからお題をいただいて即興の歌を作るようになって。落語でいう「三題噺」だよね。それが大ウケして、「豚とゴボウ」なんて呼ばれて六本木界隈ですごい有名になっちゃった(笑)。確か1974〜75年の頃だね。噂を聞いたTBSテレビのプロデューサーが店に見に来て、それで1976年にTBSの土曜日12時から『西やん松ちゃんのハッスル銀座』っていう生番組が始まった。76年は2人が世に知られるきっかけになった年なんです。

80年代のバブルの頃は、もうどのお店に行っても楽しくて楽しくて(笑)。『ベイ』っていう、ちょっと粋な芸能人が集まる小さな店があって、そこに夜な夜な行っちゃあ歌っていました。時には僕がギターでボーカルが西田敏行、ベースが田中健、西城秀樹がドラムで演奏したりね。居合わせたお客さんは驚いてたよ(笑)。

なにしろ80年代全般はクレイジーなヤツが多かったし、クレイジーなことが許された時代。個性的な店は沢山あったけど、でも悪さをする店は少なかった。大人の社交場として成り立ってたんだよね。

ただ90年代に入ってから六本木がちょっと"新宿化"してきちゃったというか…。それまではタキシード姿の支配人が立っていてきちんと接客してくれてたのに、街頭で呼び込みが始まった時点で街が変わった感覚がありますね。今は呼び込みも少なくなって、また六本木の良さが戻ってきた気がしますが…。

1999年に六本木7丁目に自分の事務所を構えたんです。この場所にビルをイチから建てたことでガキの頃からの夢が叶ったとも言えるし、六本木をもっと身近に感じられるようになった気もしますね。

今は大変な時ですが、六本木には一生付き合っていきたいお店が沢山あるので、無くなって欲しくないですね。串揚げの『知仙』はもう40年くらい通っているかな。一品一品が素晴らしくてね、自分の家族や海外からのお客様も連れて行きます。あと、バンドマンにとって『バーガー・イン』の次に憧れだったのが『香妃園』。いまだに散々飲んだ後も、シメはここの「鶏煮込みそば」だもん。なんだろうね、あの美味しさは。最近は事務所の近くの『Dining & Bar Gochi』や『炭火焼肉 とうがらし』、『食幹』とか、新たな行きつけも増えていますね。そこでボトルキープしてる辛口の日本酒を飲むのが楽しみです。

安心して遊べる、安全な「眠らない街」の復活。 それがコロナ収束後の六本木に願うこと。

今の六本木は背伸びをせず気軽に来れる街になったけど、かつては大人の階段を昇るために一度は通らなくちゃならない場所、という感覚がありました。僕も西やんも、街に遊ばせてもらったんですよ。街の大人たちが僕らを育ててくれたと感じているし、自分もそういう先輩でありたいと思います。

今はコロナ禍で小休止をしている状態ですが、その間に人はいろんなものを学んでいるはずだから、学びがいい方向に現れてくるだろうと思っています。きっと考え方も少し変化して、新しい街づくりが生まれてくるんじゃないかな。

"夜の街"と呼ばれてきた六本木は、遊びを提供するプロが集まっている。だからコロナが収束したらもう一度、大人が朝まで安心して遊べる「眠らない、安全な街」に戻るといいですね。六本木にはそのポテンシャルがあるから、きっといい街になっていくと思うよ。

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