中学3年生の時、『週間文春』で秋山庄太郎さんにポートレートを撮っていただいたのがきっかけで、モデルの仕事を始めました。高校生になった16歳の頃…'65年頃だったかな、知人のヘアデザイナー・宮崎定夫さんが三河台にある自身の家を借してくださることになって、そこで一人暮らしを始めたんです。家は今はなき『ハンバーガー・イン』の所を入った奥にあって、紫色の絨毯が敷き詰めてあるようなゴージャスな洋館でした。もちろん親は大反対でしたが、私が一度言い出したらきかない性格なのを分かっていたんでしょうね。少し早くお嫁に行ったと思って、許してくれました。それが私と六本木の街との最初の出会いです。高校も、モデルのお仕事もその家から通っていました。それで帰ってきたら『ハンバーガー・イン』で夕ご飯という毎日(笑)。
その頃は立木さん(写真家・立木義浩氏)とお仕事をしていたので、当時レストラン『キャンティ』の隣にあった立木さんの家にもよく遊びに行きました。『コーセー』や『カネボウ』のイメージモデルをしていたのですが、そのポスターを撮ってくださったのが立木さんです。『キャンティ』や『すし長』など、大人が通うお店にもよく連れていってもらいました。私は『野獣会』の少し下の世代で、同年代の遊び仲間の一人だったのが順さん(俳優・井上順氏)でした。順さんと出会って20歳で結婚したので、実際にモデルの仕事をしていたのは4年程なんですよ。結婚する前はお互いすごく近くに住んでいたので、私が1軒家に帰ったら、家の電気を付けたり消したりして「帰ったよ」なんて合図をしたり…電話があるのにね(笑)。それで待ち合わせをして、2人で『瀬里奈』にご飯を食べに行ったりしていました。結局33歳の時に離婚したのですが、今でも順さんとはまめに連絡を取り合っていて、大の仲良しです。
離婚後は、『アルファキュービック』の食品部門でカフェやケーキショップをプロデュースする仕事をしていたのですが、'82年当時と言ったら六本木が最高に面白かった頃。バブル前夜という感じで、今思えば華やかな時期でしたね。私は会社務めだったので、朝9時から夜6時まで仕事をして、そのあと毎日朝まで遊んでたんです。『バレンタイン』『ベー』、それから『クレイジーホース』などに通って、踊り明かしていました。もう今日はやめておこう、と思っても、ディスコブームのまっただ中だったし、楽しくてつい行っちゃうのよね。明け方にお腹が空いて『香妃園』でよく鶏煮込みそばを食べたっけ…。でも、会社員のお給料でどうしてあんなに夜遊びできたんだろうと考えてみると、どの店に行っても必ず知り合いがいて、気がつけば誰かが女の子の分のお勘定を払ってくれてたのね。お金がかからないから毎日通えた訳です(笑)。それだけ景気が良かったというか、豊かな時代だったのかもしれませんね。
私は16歳の時に六本木に住み始めて、結婚時代は広尾、離婚後は西麻布…とずっとこの界隈に住んでいます。便利ですし、やっぱり好きなんですね。会社を退社して、'93年にケーキショップ『ラ・ターブル』を開いたのも西麻布でした。ほうれん草、人参、紫イモの3種類のヘルシーな野菜のフィナンシェを販売して、とても人気があったんですよ。とにかく私って、美味しい物のことを考えていると幸せなんですね。今も美味しい店を見つけては人に教えたり、そういうことが大好きです。