レストラン『キャンティ』は60年にオープンしました。僕が18歳の頃です。その当時の六本木には『ハンバーガーイン』やピザの『ニコラス』、イタリアンの『シシリア』、それから飯倉交差点の近くに『88』や『カサノバ』といったナイトクラブがあるくらいでした。青年時代の六本木の思い出と言えば、そういったナイトクラブに背伸びをして遊びに行ったことでしょうか。親父(川添浩史氏・『キャンティ』の創始者)のせいにする訳ではないけど(笑)、彼が遊びが好きな人でね。店に連れていってくれるんですよ。それで楽しさを覚えたんです。もっと前の少年時代の思い出は、慶応中等部の同級生だった福澤幸雄君(レーサー。69年、走行事故により25歳の若さで急逝)と仲良しで、その頃『シシリア』が僕らの溜まり場でしてね。夜中の2時頃になると、赤坂のナイトクラブの女性たちが仕事を終えてやって来るんですよ。その女性たちに14、15の中学生が「お好きなもの、どうぞ」とか言ってるんですから、参っちゃいますよ(笑)。
彼女たちとダンスをすると良い香りがして、それが香水というものを知った最初の体験です。その頃の服装は、テーラーで仕立てたワイシャツにパリ土産のイブ・サンローランやピエール・カルダンのネクタイで。ガキのくせに随分と贅沢なもんです。今思えばいわゆる“不良”だったんでしょうね。最近は不良というとちょっとニュアンスが違うようですが、要するに大人の世界に飛び込みたくて仕方がない、背伸びをした子供だったんです。
『キャンティ』のオープン時は鹿児島の高校(ラ・サール高等学校)に通っていたのですが、翌年卒業して成城大学に入学してからは、すぐに店の手伝いを始めました。僕は遅番だったので、夕方17時半に入って終わるのは朝の3時頃だから、ぜんぜん大学に行けないんですよ。それで「学校より仕事してる方が楽しいから」と先生に言って辞めたんです。親父には事後承諾で伝えたのですが、怒るかと思ったら嬉しそうな顔をしてたのが記憶に残っています。店を継がせたかったんでしょうね。それで65年の23歳の頃に、当時三ッ星だったパリのレストラン『マキシム』に修行に出されました。
あの頃は厨房には稀にアジア人がいることがあっても、フロアに日本人が立つなんて考えられない時代でしたから、すごく驚かれました。お客はギリシャの海運王のオナシスとマリア・カラスの2人や、テキサスの石油王のハント、それからモデルを連れたピエール・カルダンなど、本当に華やかで社交界のようでした。夜11時を過ぎると店内の照明が落ちてダンスフロアになるのね。それが何とも言えないデカダンな雰囲気で。あの時に一流のレストランが持つ品格や雰囲気というものを学んだ気
がします。そんな感じで、すっかり親父の策略に引っかかって(笑)、いえ、僕自身レストランが大好きだったのでーこの仕事を受け継ぎました。