私と六本木を結びつけたのは、イタリアンレストラン『キャンティ』がきっかけでした。初めてお店に行ったのはデビュー前の16歳の時、'60年の頃です。青山のボウリング場で川添家の坊ちゃんたちに、「今度うちの店オープンするから来ない?」って誘われたの。それでどんなお店かも知らずに訪ねてみたら、丹下健三さんや黛敏郎さん、三島由紀夫さん、藤間のご宗家_といった様々な世界の方がいらしてる。好奇心いっぱいの10代の女の子は、そこで嵐のような“文化的洗礼”を受けたのよ。彼らが喧々諤々と意見を交わしてるのを聞いているだけで、本当に面白かった。オーナーの川添夫妻(川添浩史氏、梶子夫人)が素晴らしいのは、当時の私のお小遣いではコーヒー1杯がせいぜいなのに、それでも何時間も過ごさせてくれた。大先生も無名の少女も、同等に扱ってくれたのよ。私にとって、生きたお勉強ができる貴重な場所だったのね。
それにお店が終わったあと麻布笄町(あざぶこうがいちょう)にある川添家までお邪魔すると、梶子さんが手際よくパスタを作ってくださる。それもTシャツを1枚着て足をスコーンと出して、その足首にはアンクレットが揺れててね。カッコいいのよ。そんな風に、辞書には載っていない“洗練”を感じていたんです。
20歳の時にパリに留学したのも、お二人の影響が大きいですね。浩史さんはパリ留学経験者で、梶子さんはイタリアの彫刻家エミール・グレコの元で勉強した人だから、二人ともヨーロッパのことを良くご存じだったし、沢山の人脈を持ってらした。だから夫妻の紹介でイブ・サンローランやサガン、トリュフォーと会ったり、シャネルでオートクチュールの服を仕立てたり_。素晴らしい体験がたくさんできました。でもね、夫妻には大きなチャンスを与えていただいたけど、それだけで何もしなかったらお仕舞いでしょ。その先は自分で行動を起こさなきゃ。特に若い頃は、自分が興味を持ったことには、臆さずに飛び込んでいく好奇心が大事だと思います。
それから'60年代の話になると、今でも「“野獣会”ってどんなグループだったんですか?」なんて聞かれるんだけど、実際は私は違うのよ。当時六本木に集う人たちが“六本木族”と呼ばれて話題になっていて、私もその一人と言われてたのね。それで混同されたのかもしれないけど、でも“野獣会”は確か、芸能プロダクションの社長が六本木族にならって若手スターの話題作りのためにプロデュースしたんじゃなかったかしら。だから野獣会のことは、どんな人たちが、どんな活動をしていたかも全然知らないのよ。それに私は六本木族と言っても、17歳で芸能界に入って、仕事帰りに『キャンティ』へ寄るために通っていたのだから、色んなお店で遊び回っていた訳ではなかったし_。野獣会のメンバーだったと言う人とも、街では会ったことなかったのよ。でもまぁ、自分にとってはどちらでもいいことだから、気にしてないですけどね(笑)。