人と車が行き交う六本木交差点。
その片隅に、ギターを抱えた乙女のブロンズ像が静かに佇んでいます。
今月は、戦後の街を見守り続けた「奏でる乙女」像について紐解いてみましょう。
 

昭和20年。ようやく終わった戦争の爪痕は、六本木の地にも深く残りました。ようやく訪れた"平和"ではありますが、やるべきことは山積みです。終戦と時同じくして六本木の復興計画は幕を開けました。

建物の移転や道路、公園、水道などのインフラ整備…これらの整備にやっと一区切りがついたのは終戦から9年が経った昭和29年のこと。区画整理事業が完了して街としての機能が備わり、その記念碑として建てられたのが「奏でる乙女」の像でした。

当時はもちろん首都高速はありません。六本木通りの中央には緑地帯がありました。当初、「奏でる乙女」はその緑地帯に建てられたのですが、昭和37年に地下鉄日比谷線の工事のため、近隣の三河台公園に移転。このとき、不幸にも腕などの一部が壊されてしまう憂き目に遭いました。 しかし、この像を守り抜きたい想いを強くした関係者の尽力により、昭和50年に再建。

当初のセメント製から、より堅強なブロンズ製に変わって再び六本木交差点へ移転されました。さらに1990年代の後半に差し掛かると、次は都営地下鉄大江戸線の工事で再び移転。平成12年になってようやく、元の"定位置"に還ってきました。



「奏でる乙女」を制作した人物は、本郷新(ほんごう・しん)氏。
戦後の日本における、具象彫刻作家の代表的存在です。

札幌に生まれた本郷氏は、上京して東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)で彫刻を学びつつ、高村光太郎に師事します。ロダンやブールデルといった西洋彫刻にも影響を受けながら、制作を続けました。

特徴的なのは、本郷氏が彫刻の社会性や公共性を強く意識していたということ。美術館に鎮座するのではなく、街中に、公共の空間の中に設置される彫刻です。

記念碑(モニュマン)の制作にも力を注ぎ、戦没学生記念像「わだつみのこえ」(1950)や「嵐の中の母子像」(1953)などを手掛けました。今でこそ街中で彫刻作品を目にすることも珍しくなくなりましたが、その先駆者的存在が本郷氏といえるでしょう。

なお、本郷氏の功績のひとつとして、「彫刻の美」という書籍の執筆があります。この本は、彫刻や芸術に詳しい人にしか理解できないようなものではなく、誰にでもわかりやすく、世界における彫刻の歴史や技術、思想などを紐解いています。 その自序(まえがき)に、こんな一節がありました。


『文化ということがこの頃、盛んにいわれている。(中略) 専門家だけでなく、多くの人々が文化を打ち建てるのであり、 また文化は多くの人々によろこびと幸福とをあたえるものでなければならないのである。』
 

驚くのは、この自序に記された日付。「昭和十六年十二月八日」とあります。戦前に「文化ということが盛んにいわれている」と記されているのも驚きですが、太平洋戦争が開戦した日にこれを書いたということが衝撃的です。これから戦争の闇に突入する中においてなお、文化の大切さを説いていた氏が、どれほど平和な世の中を渇望していたのかが分かります。

平和だからこそ、人々は芸術を愛し、文化的で心豊かな暮らしを送ることができます。戦後復興の記念碑として建てられた「奏でる乙女」は、その象徴として六本木の文化的発展を、今もなお見守り続けています。